※暫定版です
[昭和28(1953)年6月24日] 竹林政行、誕生日 [昭和35(1960)年3月] 朝陽幼稚園、卒園 [昭和41(1966)年3月] 大阪市立高松小学校卒業 [昭和41(1966)年4月] 大阪市立文の里中学校入学 [昭和42(1967)年4月] 大阪市立平野中学校転入 [昭和43(1968)年4月 〜 昭和44(1969)年3月] ← 15歳 中学3年生の時に作詞作曲をし始めたと記憶しています。 中学3年の2学期か3学期。 他校の中学生にカツアゲされかかり、殴る蹴るの暴行を受ける。この時の 複雑な感情が昇華して「この空を飛べたら」を作詞作曲。 それから数日後(だったと思います)、私の教室内に一人の見知らぬ男子 高校生が入って来ました。後の笑福亭鶴瓶こと駿河学。平野中学の卒業生 では無い駿河に立ち入り許可を出したのは某体育教師。 この時に自分が作詞作曲した歌を何曲か歌った。 ※ マガジン(1999年10月18日号)に詳細記載 「この空を飛べたら」「生きる」「赤とんぼの唄」・・・ この三曲しか題名を覚えていません。 この時は、この三曲だけしか歌ってなかったと・・・ 記憶しています。 その後、笑福亭鶴瓶(駿河学)と7、8回遭遇する。 何れも偶然。 [昭和44(1969)年3月] 大阪市立平野中学校卒業 [昭和44(1969)年4月] 大阪府立東住吉工業高等学校入学 高校の何年生だったか覚えていませんが、浪花高校のD君(平野中学3年 の時の同級生)に誘われて浪花高校の文化祭に行きました。 D君とD君の先輩のMさんと文化祭を見て回っていたのですが、この二人 がすれ違った駿河学を無視したので私も駿河学を見覚えていましたが、つ られてというか何となく前を歩いていた二人と同じように会釈もせずに通 り過ぎようとしたら、エライ剣幕で怒って来ました。 しかし、Mさんに庇ってもらって、その場は収まりました。 それと・・・ 私が中学1年まで住んでいた阿倍野区内の幼なじみの1歳上のK君と再会 しました。 K君は浪花高校の生徒でした。 その時の雰囲気だったか話を聞いたかで、K君が駿河学に「平野中学校の 竹林の面倒を見てやってくれ」と言った(頼んだ)んだと思います(記憶 しています)。
また高校の何年生だったか覚えていませんが、大和川高校のR君(平野中 学3年の時の同級生)に誘われて大和川高校の文化祭にD君と一緒に行き ました。 その帰途だったと記憶していますが、ひょんな事から国鉄阪和線(現・JR 阪和線)で谷村新司、堀内孝雄の二人連れと遭遇しました。 彼らに「秋止符」を歌って聞かせました。 「バンドの練習に行く」という約束をしました。しかし、バンドの練習に 一度も行きませんでした。 東住吉工業高校に谷村新司、堀内孝雄がやって来ました。 彼らに「君のひとみは10000ボルト」を歌って聞かせました。 谷村新司、堀内孝雄が歌のオーディション番組に出ていた時に井上陽水も アンドレカンドレというグループ名で出ていましたが審査員(作曲家)に 酷評されていました。私はその番組を見ていて立腹し抗議の葉書を送りました。
現在、大阪市平野区内にカナエスーパーがあります。(国道沿い) 当時、住所表示は東住吉区で、スーパー名称は「主婦の友」でした。 そのスーパーの近く(東住吉区平野本町だったと思います)の喫茶店の中 で偶然 、駿河学と遭遇したことがあります。 その喫茶店の店名は、「本町」か「本街」だったと思います。 1970(昭和45)年だったと思います。 この記憶が確かでしたら、私が高校2年の時です。 しかし、高校1年の時だったか、或いは高卒後の藤本製薬時代だったか はっきりとは思い出せません。 [昭和47(1972)年3月] 大阪府立東住吉工業高等学校卒業 [昭和47(1972)年4月] 藤本製薬株式会社入社(大阪府松原市) この会社に鶴瓶(駿河学)から電話が掛かって来た。 [昭和49(1974)年1月] トヨタカローラ南海株式会社入社 この年か翌年、営業で飛び込み訪問をしている時に知らずに偶然 、笑福 亭鶴瓶(駿河学)の実家(長吉という地名)に訪問する。 その時の様子を録音したテープをトヨタカローラ南海株式会社の本社に送 って来た。 [昭和51(1976)年3月] ← 23歳 トヨタカローラ南海株式会社退社 ※ 作詞作曲、番組企画、キャッチコピー等の創作は昭和43(1968)年4月の 中学3年の時ぐらいから昭和51(1976)年3月くらいまでの8年間でした。 ( 15歳から23歳の間 ) それ以降は才能が枯れてしまったのか、ほとんど創造できていません。 [昭和54(1979)年 か 昭和55(1980)年] ← 26歳から27歳 谷村新司が生出演しているMBS(毎日放送)ラジオ番組「ヤングタウン」 に電話した。谷村宛て伝言を頼みました。 コマーシャルの時に伝言のメモを渡したようです。 生放送中に谷村が「今頃になって連絡して来やがって」と怒っていました。 レギュラー出演されていた女性アナウンサーさん(名前は佐藤良子さんだ ったと思います)が、「長い事、一緒にやって来たけど、チンペイがこん なに怒るのを見たのは始めて。皆から馬鹿にされていて、情けない男だと 思っていたけど凄い影響力があるんだ」というような意味の事を喋ってい ました。( ※ 皆から馬鹿にされていて、情けない男とは私を指している ) 同じくレギュラー出演されていた ばんばひろふみさんが「本当に作った 人から連絡してきたんやから、きちんと話し合わないといけないんとちゃ うのん」というような意味の言葉を言っていました。 著作権を侵害している当事者以外の業界の方々も知っているのです。 阿久悠の事務所に電話を掛けた時も電話に出られた女性事務員さんたちが 何とか阿久悠を電話口に出させようとして下さいました。 ( 阿久悠の事務所に電話を掛けた時の年代は、よく覚えていません ) しかし阿久悠は電話には出ませんでした。 阿久悠が女性事務員さんたちに「私はお金が惜しくて電話に出ないんじゃ ないよ。他の先生方に迷惑が掛かるから私の一存では話し合いには応じら れないよ。他の先生方と連絡を取ってからでないと。今は電話に出ても何 も話しが出来ないよ」と言っている声が受話器を通して聞こえました。 [昭和55(1980)年春 から 昭和56(1981)年まで] ← 27歳から28歳 大阪市内の本町(現在は、中央区)のイトマンビル(現在は、別会社の所 有ビル)のテナントの書店に勤めていました。(書店名は、ミナ書房本町 店だったと記憶しています) ミナ書房の社長は、本町店にいることが多かったです。 80年12月8日(9日?)、社長が外出先から帰って来て、「店長、エライ事 や、ジョン・レノンが射殺されたぞ」と大きな声で店長に言いました。 店長が「それが、どうしたんや」と何の関心も示さずに馬鹿にしたような 調子で言いました。 社長も「そうやな、それをラジオが何回も繰り返しているんや」と店長と 同じような馬鹿にしたような調子で答えました。 二人の好奇の野次馬のような会話が暫くつづきました。 黙って聞いていた私に社長が「竹林君はどう思う?」と聞きました。 私は雰囲気に逆らえずに同じようなトーンで適当に相づちをうつしかあり ませんでした。 家に帰ってからジョン・レノンの死を悼んで集まっている人たちが嘆き悲 しんでいる表情や泣いている姿を見ている内に私も悲しくなってきて・・・ 布団に入ってから鳴咽を漏らしてしまいました。 翌日、書店の社長が私の顔を見て店長に「目が腫れている、可哀相に泣き はらしたんやろ」と言いました。 その社長、店長、日販の営業の人は、70年代のテレビ番組の数々を見て 知っていました。 時々、その話をしていました。 私がその仕掛け人であることも知っていました。 社長の飲み友達が放送局の人でしたので噂話を聞いて知ったようでした。 しかし、その社長、店長たちは競争社会、弱肉強食社会でのし上がる事、 勝ち残る事が全てだと考えておられましたので、証言してくれないと思い ます。